寺本貴啓のブログ

“振り子”はなぜ「よい教材」なのか ―― その教材性を読み解く

―― 振り子の授業は、子どもと教える人を同時に育てる

五年生の理科室で、糸の先におもりをつけた振り子が、いくつも並んでゆれている。子どもたちはストップウォッチを握り、往復の回数をかぞえ、ノートに数字を書きつける。傍から見れば、ずいぶん地味な光景だ。けれどこの地味な単元は、教室のなかで二人ぶんの学びを、同時に引き受けている。ひとりは、目の前で振り子をゆらす子ども。もうひとりは、その授業をどう進めるかを学んでいる、教える人のほうだ。

子どもの側 ―― 科学の営みが、まるごと収まっている

授業は、たいてい一つの問いから始まる。振り子を音楽に合わせて動かしてみると、速さの違いに気づく。そこから「一往復の時間は、何で変わるんだろう?」という問いが、子ども自身のことばで自然にわいてくる。

予想は、たいてい直感に沿う。おもりが重ければ速そうだ。振れ幅が大きければゆっくりだろう。ところが実験をすると、答えは直感を裏切る。重さを変えても、振れ幅を変えても、一往復の時間は変わらない。決めているのは、糸の長さ――ただそれだけだ。この「思っていたのと違う」という一瞬こそが、授業の心臓部にある。ここで育つのは振り子の知識というより、思い込みで決めず事実で確かめるという、科学の態度そのものだ。

そして子どもは、答えにたどり着く過程で「一つだけ変えて、あとはそろえて比べる」という作法を体で覚える。変えられる要因が長さ・重さ・振れ幅の三つに、しかも数で測れる形できれいに絞られているから、条件をそろえる必然が、手を動かしながら腑に落ちる。意外さに驚き、条件をそろえて確かめ、数字を積み上げて結論にたどり着く――科学の営みのひと通りが、糸とおもりという最小限の道具のなかに、まるごと収まっている。振り子は、子どもにとってその器なのだ。

教える人の側 ―― 授業の骨格が、局面ごとに透けて見える

この器は、子どものためだけのものではない。教壇に立ちはじめたばかりの人が、「理科の授業とはそもそも何をする時間なのか」を学ぶための見本としても、振り子はよくできている。しかもそれは「授業全体の雰囲気」といった漠然としたものではなく、問題解決を組み立てる一つひとつの局面が、それぞれくっきり見えるという意味においてだ。

ここで見ていくのは、切り離せる四つの技能ではない。問いを立て、根拠づけ、確かめ、考える――そのどれもが、一本の流れの上に並ぶ節目である。順に見ていこう。

問題を見いだす。 若い先生がとりわけ苦労するのが、この最初の場面である。教科書の問いを黒板に写すのは簡単だが、子どもの内側から「調べてみたい」という問いが立ち上がるように仕向けるのは、理科の指導のなかでも指折りの難所だ。ここで振り子は、またとない練習台になる。音楽に合わせて振り子を動かし、速さの違いに気づかせるだけで、問いが子どものことばで自然にわいてくる。教え込まずに問いを生ませるとはどういうことか――その手つきを、この単元の上でなら具体的につかめる。

仮説を設定する。 次に難しいのが、子どもの予想を「なんとなくの当てずっぽう」で終わらせず、根拠のある仮説へ育てることだ。振り子では、これが実にやりやすい。「重いほうが速い」「振れ幅が大きいと時間がかかる」といった予想が自然に出るうえ、どれも「日常のこういう経験から、こう考えた」と理由をたずねれば、子どもが自分のことばで根拠を語れる。教員は、予想と仮説はどう違うのか、なぜ根拠を言語化させるのかを、抽象論ではなく目の前のやりとりのなかで理解できる。しかも要因が三つに限られているので、仮説が発散せず、全員で追いかけられる形にまとまる。

条件を制御する。 理科指導の核でありながら、口で説明しても伝わりにくいのがこの考え方だ。振り子は、その指導のいわば標準見本になる。長さの影響を調べたいなら、長さだけを変え、重さと振れ幅はそろえておく――変える要因と、そろえる要因を仕分けるという作業が、三つしかない要因のおかげで一目で整理できる。教員は「なぜ一度に一つしか変えてはいけないのか」を、子どもに実感させる手順を、この単元でひととおり体験できる。ここでつかんだ型は、他の単元で条件が増えたときにも応用がきく。

考察する。 実験の後、結果をどう読み、どう言葉にさせるか。ここも新任教員がつまずきやすい局面だが、振り子は考察の「型」を教えるのに向いている。ポイントは、結果を必ず最初の予想と照らし合わせて語らせることだ。「重さを変えても時間は変わらなかった。予想は外れた」――この、予想と結果のズレを言葉にする作業こそが考察の芯であり、意外な結果が出る振り子では、そのズレがくっきりしているぶん、子どもが書きやすく、教員も指導しやすい。結果(事実)と解釈(そこから考えたこと)を混同させないという、考察指導の勘どころも、ここでなら明確に示せる。

大切なのは、この四つが別々の練習課題ではないということだ。他の単元でも、問いの見いだしはこの教材で、条件制御はあの教材で、と各局面を扱うことはできる。けれどそれは、四つの節目をばらばらの機会に、少しずつ練習することになりがちだ。振り子がまれなのは、この一続きが、たった一時間の授業のなかで通して起きるところにある。問いが生まれ、根拠づけられ、確かめられ、考察へ着地するまでを、教員はひと息に、しかも同じ一つの現象の上で観察できる。だからこそ振り子は、局面ごとの見本であると同時に、問題解決の流れをまるごと収めた器なのだ。しかも扱う中身が易しいぶん、新任の先生は「どう教えるか」という構造のほうに、まるごと注意を向けられる。研修の共通の下敷きになり、ベテランが「ここで待つ」「ここで問い返す」と語ることばの意味も、この単元の上でなら若い先生に届きやすい。

二重の器

こうして見ると、振り子の授業は二つの器を同時に差し出している。ひとつは、子どもに科学の営みをひと通り手渡す器。もうひとつは、教える人に「理科の授業とはこういう形をしている」というひな型を手渡す器だ。

このふたつは、別々のものではない。子どもにとって学びの流れがこれほど澄んで見えるのは、教える人にとっても授業の骨格がこれほど透けて見えるのと、同じ理由による。要因が三つに絞られ、数で測れ、結果が直感を裏切る――そのつくりの良さが、子どもの納得しやすさと、教員のわかりやすさを、一度に支えている。学ぶ側と教える側の見通しのよさが、同じ一本の糸から生まれているのだ。

おわりに

理科室でゆれる振り子は、見た目にはあまりに素朴だ。けれどその一往復のなかには、子どもが科学の作法を初めて手にする瞬間と、若い教員が授業の型を初めてつかむ瞬間とが、静かに重なっている。

決めつけないこと、そろえて比べること、事実から考えること。そして、教え込まずに問いを生ませること、待つべきところで待つこと。ゆれる一本の糸は、机に向かう子どもと、教壇に立つ人の、両方の学びを同時に結んでいる。振り子の授業の価値は、たぶんこの二重性のなかにこそある。

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